
瑞泉寺 山門は、高さ17.4mの重層の総ケヤキ造リで、真宗寺院建築の山門を代表する建造物です。宝暦12年(1762年)に瑞泉寺が全焼し、京都の本山(東本願寺)から肝煎(きもいり)方大工柴田新八郎らが派遣されて各伽藍の再建が進められました。山門の工事は天明5年(1785年)に始まりましたが、工事中に本山である東本願寺が全焼し、東本願寺の再建のため本山から派遣されていた大工が引き上げることになり、地元の井波大工松井角平が棟梁を受け継ぎました。文化6年(1809年)に上棟式を行ない、見事な山門を完成させました。
瑞泉寺の本堂は、明治18年(1885年)に再建されたものです。間口46メートル(25間)、奥行43メートル(23間半)、総面積1950平方メートル(590坪)、単層入母屋作りの北陸有数の大伽藍です。ご本尊は阿弥陀如来、両脇壇には宗祖 親鸞聖人 御影と先門主 御影があり、右余間壇には瑞泉寺建立を勅願された後小松天皇尊牌が安置されています。
太子堂は、大正7年(1918年)に井波彫刻の粋を集めて再建されました。約29メートル(16間)四方、総面積840平方メートル(255坪)の二層伽藍です。本尊は、後小松天皇が開基 綽如上人へ下賜された聖徳太子2歳の尊像(言い伝えによれば太子御自刻)です。毎年7月21日から29日まで行われる「太子伝会」は、聖徳太子の生涯を八幅の絵伝を用いて絵解きされる全国でも珍しい行事です。
唐破風造りの式台門は、門扉に菊の紋章があり、勅使参向の際に出入りに使われるため、勅使門・菊の門とも呼ばれています。瑞泉寺は、宝暦12年(1762年)の大火によって全焼しましたが、まもなく再建か進められ、寛政4年(1792年)に式台門の立柱式が行われています。記録では、棟梁は加賀藩の拝領地大工であった井波の柴田清右衛門がつとめ、彫刻は拝領地大工の北村七左衛門(番匠屋九代目)が彫ったとあり、井波彫刻の源流を示す名作の一つとされています。
瑞泉寺の11代住職で俳人として知られた浪化(ろうか)が司晨楼(ししんろう)と名付けた太鼓堂です。瑞泉寺の諸堂に時を告げる合図としてここで太鼓が打たれました。昔は太鼓堂から能登へ続く山々や倶利伽羅の駅が見えたと伝えられています。太鼓堂は度々火災にあい、天保13年(1842年)に再建されました。
![]() 瑞泉寺の藤棚 藤の花は、6月中旬から7月上旬が見頃 |
![]() 昇龍の松 |