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福野夜高祭
福野の曳山
福野には横町、上町・七津屋、浦町・辰巳町、新町の4基の曳山があります。福野夜高祭(5月1・2日)の翌日である5月3日(福野神明社春季例祭の本祭り)に曳山巡行が行われます。曳山の形は、基本的に高岡御車山と同形の上部に鉾留と花傘のある花山となっています。だだし、上町・七津屋の曳山のみは入母屋造り唐破風の屋根の付いた城端曳山や八尾曳山の近い形になっています。福野曳山は、八尾曳山と同じ日である5月3日に行われる事や4基揃っての巡行が戦後70年近く途絶えて平成18年から再開されたことなどから富山県内の曳山としては最もマイナーな曳山の一つです。この福野の曳山は、「福野神明社春季例祭曳山」として2004年(平成16年)2月14日に南砺市指定有形民俗文化財となりました。
本座(山人形)の意匠は、横町「猩々の汲み酒」、上町・七津屋「神功皇后の西征航海」、浦町・辰巳町「素戔鳴尊の大蛇退治」、新町「橋弁慶牛若丸」です。福野の曳山はいつ頃から曳き廻されるようになったかは定かではありませんが、19世紀前半には曳山が存在したことを示す史料が残されています。元禄年間(1688~1703年)は庶民文化が花ひらき、享保年間(1716~1735年)には経済不況となりました。不況打開のために人々は神を奉り招福除災・町内繁栄を祈りました。安永年間(1772~1780年)には各地で曳山祭りが流行っていました。
上町には文政9年(1826年)以降の曳山を行った古文書があり、横町には弘化4年(1847年)に曳山修繕を行った古文書が残っています。文政年間(1818~1829年)には各町で曳山を作り、天保年間(1830~1843年)には4町の曳山が揃って曳き廻されていたと考えられます。
福野神明社前に勢揃いした4基の曳山(写真:2010年5月3日)
横町:猩々(しょうじょう)の汲み酒
横町の曳山:本座は猩々(しょうじょう)です。相座は、からくり人形の唐子となっています。高欄(こうらん)は、一位高欄腰重子彫り。上壇は神代木雲龍彫り、中壇は水浪、下壇は如鱗杢牡丹獅子彫り。地山(曳山の腰部分)には巌石獅子彫りが施されています。
浦町・辰巳町:素戔鳴尊(すさのおのみこと)の大蛇退治(おろち たいじ)
浦町・辰巳町の曳山:本座は素戔鳴尊(すさのおのみこと、天照大神の弟)です。雛台になっており、朱塗りの擬宝珠高欄(ぎぼうしゅ こうらん)と白木の高欄の二重構造になっています。見送りは、金箔押しの鏡面板で白象に子供が戯れる「唐子遊び」が木彫彩色されています。雛台の下には欄間が二重になっており、上が堆黒(ついこく)で波に龍が戯れる木彫彩色、下が白木に菊が彫刻されています。腰幕は、ラシャの朱色の幕です。
上町・七津屋:神功皇后の西征航海
上町・七津屋の曳山:本座は神功皇后で、武内宿禰(たけのうち すくね)が陪従しています。曳山全体が船の姿をし、船首には翼(2.3m)を広げた木彫りの鷁(げき:水鳥。強風に耐えて飛ぶことから水難よけに飾ることが多い)が飾られています。船の上には入母屋造り唐破風の屋根があります。
新町:橋弁慶牛若丸
新町の曳山:本座は橋弁慶牛若丸です。硯屏は、水波に龍・松竹梅に虎・雲に麒麟・唐子遊びなどの精緻な彫り(井波彫刻)に金箔が施されています。高欄の欄間は、漆塗りでホゾ構造による組立て式です。鉾留(ほこどめ)は、ほら貝です。
福野曳山の巡行は実にアッサリしています。午前9時半頃に福野の中心部である銀行四つ角(上町交差点)に4基の曳山が集合します。午前10時から30分間ほどセレモニー(挨拶や表彰式など)が行われ、10時半くらいに銀行四つ角を出発し、福野神明社前へ向かいます。経路は、横町通りを進み、福野神明社前の鳥居までです。銀行四つ角から福野神明社前までは、約15分です。福野神明社に到着後は、お祓いなどの神事が行われます。銀行四つ角では4基の曳山を一枚の写真に収める事が出来ないので、写真を撮るなら福野神明社前が良いです。午後は、それぞれの町内で曳山が曳かれ、獅子舞も出ます。
福野曳山 地図
- 福野神明社
- 銀行四つ角:地図中央のバルーンマーカー、この場所に曳山が集まります。
- 横町 曳山蔵
- 浦町・辰巳町 曳山蔵
- 上町・七津屋 曳山蔵
- 新町 曳山蔵
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